☆西国街道の旅の「2)古代の桜井駅跡と楠正成別れの地(島本町桜井)」
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2)古代の桜井駅跡と楠正成別れの地(島本町桜井)
【閲覧数】392 【マップカテゴリ】西国街道
2016年06月18日 15:54
2)古代の桜井駅跡と楠正成別れの地(島本町桜井)

桜井駅跡(さくらいのえきあと)は大阪府三島郡島本町桜井一丁目にある古代律令制度下の駅家の跡。『続日本紀』には711年(和銅4年)「摂津国島上郡に大原駅を設ける」という記述があり、この大原駅が桜井駅のことである。西国街道に面している。
この駅跡は、「楠公父子訣別之所」として知られ、「太平記」に「正成兵庫に下向の事」(湊川の戦い)において1336年(延元元年・建武3年)、足利尊氏を討つべく湊川に向かう楠木正成が、嫡男の楠木正行を河内国に帰らせたと伝えられている。
ここで、地元簿ラン手阿ガイドの方にお話を伺う機会があったが、かなり丁寧に説明していただいた。つい時間が推してしまった。
『太平記』によると、「桜井の別れ」のあらましは次の通り。
建武三年五月(1336年6月)、九州で劣勢を挽回して山陽道を怒濤の如く東上してきた足利尊氏の数十万の軍勢に対し、その20分の1ほどの軍勢しか持たない朝廷方は上を下への大騒ぎとなった。新田義貞を総大将とする朝廷方は兵庫に陣を敷いていたが、正成は義貞の器量を疑い、今の状況で尊氏方の軍勢を迎撃することは困難なので、尊氏と和睦するべきだと後醍醐帝に進言したが、聞き入れられなかった。そこで正成は死を覚悟し、湊川の戦場に赴くことになった。
その途中、桜井の駅にさしかかった頃、正成は数え11歳の嫡子・正行を呼び寄せて「お前を故郷の河内へ帰す」と告げた。正行に対し、帝のために、お前は身命を惜しみ、忠義の心を失わず、一族郎党一人でも生き残るようにして、いつの日か必ず朝敵を滅せ」と諭し、今生の別れを告げた。

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