☆西国街道の旅の「3)元中島町 (広島市中区中島町)」
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3)元中島町 (広島市中区中島町)
【閲覧数】332 【マップカテゴリ】西国街道
2018年12月16日 09:50
3)元中島町 (広島市中区中島町)
中島地区は、毛利輝元による広島築城以来の町人町で、2つの川の分岐点に位置することから、藩政期には太田川上流の芸北地域と広島湾とを結ぶ水運による物産集散地となり、また西国街道(山陽道)がこの地区の中ほどを横断していた。明治期に移行してもこの界隈は広島随一の盛り場の地位を譲らず、加えて1889年の市制施行により中島新町に市役所が置かれていたため、1878年以降県庁が設置されていた隣の水主町(現・中区加古町)と併せこの近辺の地区は県政・市政の中心部としての位置を占めていた。中島町界隈の繁栄にいくぶんか翳りが生じるようになるのは、大正期以降である。これより先、1894年の山陽鉄道(現・JR西日本山陽本線)開通で、市域全体から見ると東のはずれの位置にある松原町に広島駅が開業、ついで1912年、旧広島城外壕を埋め立てて広島駅と相生橋東詰を結ぶ市内電車線(現・広島電鉄)が開通すると、市内のメインストリートは電車通りに沿って次第に東に移るようになり、本通、紙屋町、八丁堀などが新たな繁華街として台頭した。さらに1921年八丁堀の南に新天地歓楽街が開発された結果、市街地の中で中島町界隈が商業・娯楽地区として占める地位は次第に低下していくこととなった。そのため、この地区に置かれていた主要金融機関の本店・支店は昭和初期までに紙屋町・八丁堀方面の新店舗へと次第に移転していった。また中島新町の市役所も昭和初期の市域拡大にともない手狭になることが予想されたため、1928年現在地の国泰寺町の新庁舎に移転した。1945年8月6日の原爆投下によって広島は甚大な被害を受けたが、当時約1300世帯・約4400人が暮らしていた中島地区はほぼ全域が爆心半径500mの同心円内に入っており、街も住民も一瞬のうちに消滅した。

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