☆風景街道「銀の道」の「「龍源寺間歩、石見銀山」」
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「龍源寺間歩、石見銀山」
【閲覧数】343 【マップカテゴリ】銀の道カレンダー
2021年01月23日 09:58
龍源寺間歩、石見銀山、世界遺産です

石見銀山(いわみぎんざん)は、島根県大田市にある、戦国時代後期から江戸時代前期にかけて最盛期を迎えた日本最大の銀山である。上述の最盛期に日本は世界の銀の約3分の1を産出したとも推定されるが、当銀山産出の銀がそのかなりの部分を占めたとされる。明治期以降は枯渇した銀に代わり、銅などが採鉱された。本項では石見銀山の概要と歴史、および2007年に登録された世界遺産としての石見銀山についても言及する。
銅をもとに、尾道で住友が商業の基盤を築く
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、1600年(慶長5年)11月に石見銀山の接収のために大久保長安と彦坂元正を下向させ、石見の江の川以東を中心とする地域(石見銀山の所在地、邇摩郡大森を中心に安濃郡・邑智郡・那賀郡の4郡146か村と、美濃郡・鹿足郡で6か村の飛地)を幕府直轄領(天領)とし、翌1601年(慶長6年)8月に初代銀山奉行として大久保長安を任命した。銀山開発の費用・資材(燃料など)を賄うため、周辺の郷村には直轄領である石見銀山領(約5万石)が設置された。大久保長安は山吹城の下屋敷のあった吉迫の陣屋で支配を行ったが、後任の竹村丹後守により大森に奉行所が置かれた。
銀の輸送
当初、産出した灰吹銀は現大田市の鞆ヶ浦や沖泊から船で搬出されていた。冬の日本海は季節風が強く航行に支障が多いため、大久保長安は大森から尾道まで中国山地を越え瀬戸内海へ至る陸路の「銀山街道」(大森-粕淵-九日市(美郷町)-三次-甲山-御調-尾道)を整備し、尾道から京都伏見(1608年(慶長13年)に洛中の両替町に移転)の「銀座」へ輸送するようにした。大森町にある熊谷家は幕府に上納するための公儀灰吹銀を天秤で掛け改め勘定を行う掛屋として任命され、現在、この熊谷家住宅は内部が見学可能である。幕府(代官所外では沿道各藩)により領内の郷村に対する人的・物的負担や、街道各村の銀輸送にあたる人馬の負担が割り当てられたが、これらの賦役は民衆から嫌気される傾向にあった。時として訴え出る者や争議が起こったが、この輸送は幕末まで続いた。
今、私たちが活用している銀の道の原点です。銀の道として幕府直轄で作られたこの道、江戸時代後期には、庶民の道、宗教の道、物見遊山の道、出雲への道も兼ねております
   

「龍源寺間歩、石見銀山」
「渋谷 次夫」
銀の道カレンダー「2021」
「2021年6月」 
製作: 銀の道広域連携実行委員会
    会長:棗田 澄子
 府中市出口町1196 TEL:0904576-0611
助成:銀山街道沿線市町等連携協議会
日本風景街道:「銀山街道 陰陽結ぶ銀の道」

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