石見銀山(島根県大田市)から産出された銀を運搬するために整備された道を 「銀山街道」という。
石見銀山は戦国時代後期から江戸時代まで約400年にわたり採掘された銀鉱山。 ここで作られた銀を大阪に運ぶため江戸幕府は幅7尺(2.12m)の道を整備した。
ひとつは、石見銀山(大森)から尾道に到るルート(約130km) もうひとつは、石見銀山(大森)から笠岡に到るルート(約130km)
尾道市御調町宇根地区に残る銀山街道は、当時の面影を良く留めている。 尾道の名の由来である、「山の尾根の道」を連想させる道だ。 幅7尺(2.12m)の道がどこまでも真っすぐに整備されている。 銀を馬で運ぶため隊列を組みやすくするためだという説や警護上の理由という説もある。
地区の有志によって立てられた案内看板。 不思議なことに、道には雑木が生えていない。 真砂土と粘土が交互に重ねられ、塩水を加えて踏み固める版築工法 が用いられているからだそうだ。
旅人の休憩や宿泊の場所として「辻堂」がところどころに設置されている。 道中の安全を祈って、薬師如来や観世音菩薩が祀られている。 旅人は神仏の使いであり、彼らを歓待することで幸いを得ると信じられていた。
御調には交通の要衝だけあって立派な常夜灯が数多く立っている。 銘文には「金毘羅大権現」の文字が。 この道は、瀬戸内海を渡って四国まで繋がっていたことを物語っている。
旅人は暗がりのともし火に大きな安堵を得たことだろう。
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