うちのは、年だから唐揚げを避けるようなので、そのときは食べる方のご協力をお願いするかも(笑)
しかも、昨日はオリーブ油で揚げました
「存在」について寝ながら考えた。 「見えるもの」を存在するもの、と考えるのは少々違うと思った。 「大きな存在」「存在感がない」等々、存在という言葉を使った表現は見た目そのものの表現ではない。意識としての表現である。 つまり、存在とは意識と結びついたものだということである。 近くで暮らしている友人がいても、その友人を意識しなければ繋がりは途切れてしまう。これは存在を忘れていると言えよう。反対に、どれだけ遠くに離れて暮らしていても、相手を意識していればそれが何かしらの行動となり、お互いの存在は意識の中に於いて保たれる。 あるご夫婦は、別々に行動していても遭遇することが頻繁にあるとお話をされていた。 ご主人は仕事で出張、奥さまは私用で。全く違う目的地への移動中に、高速道路のパーキングエリアで偶然にも会ったそうである。 わたくしはこのお話をきいて、ご夫婦のお互いの存在への意識の強さを感じたのである。奥さまの作られる唐揚げは頗る美味しいこと間違いなしである。 存在への意識は空間としての距離だけではなく、時間としての距離も超えることができるのではないだろうか。 「死」への存在である。 人は死を迎えることにより肉体を失うことになるのだが、存在も一緒になくなるのかというとそうではない。と、わたくしは思ったのである。寝ながらね。 すでにこの世を去ってしまった家族や友人など。 それらに意識を向けることで時間を超越した繋がりを持つことができるのではないかという考えである。 大切なひと、大切なもの、それらに物理的な存在を求めるのではなく、意識においての存在ということに注意を傾けることにより、わたくしは更に宇宙との繋がりが強化され、強いてはカラアゲを頂く機会が抜群に増えること間違いなしであろう。 【サックスとfujiborn】 ジャズを演奏したいと言いながら、ジャズを聴かない人が本当にいるんです。 音楽と宇宙と あなたをつなぐ サウンドトレジャー |