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2024/09/06 『ルナ・ゲートの彼方 "TUNNEL IN THE SKY"』(ロバート・A・ハインライン:著/創元SF文庫)を読んだ。 まずは出版社の紹介文を引く。
大好きなハインラインの未読本である。本屋で東京創元社創立70周年フェアのラインナップを見て、内藤泰弘氏の書き下ろしカバーがやけに格好良かったので衝動買い。 巻末にある大森望氏の解説によるとハインラインは一九四七年から五八年まで十二年間、毎年クリスマス・シーズンに一冊ずつジュヴナイル長編を出版したらしく、本書はその一冊である。 未来におけるハイスクールの最終試験。それは志願者が参加するサバイバル・テストであった。恒星間ゲートを利用した時空ジャンプで志願者を未知の惑星に送り込み、回収の時まで無事生き延びることが出来れば合格という命がけのテストである。ところがなぜか予定の時期に回収ゲートが開かず・・・という話の展開。なんとなく『十五少年漂流記』を想起させるようなSFであった。いくつになっても男はこういうのを好きなのですよ。存分に楽しみました。 ただ、結末は想定外。ハインラインはどうしてこんな結末にしたのか。もっと感動的でヒロイズム願望が満たされる結末を用意することも可能だろうに。そこが謎といえば謎。うーん、なんだかなぁ。
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2024/09/04 本日の厨房男子。 朝餉は冷凍の稲庭風うどん。先日、スーパーで米を買おうとしたら、品薄で売っていたのはひと種類だけ。それもほぼ売り切れて、ほとんど残っていなかった。もうすぐ新米の時季なので、細々食いつなごうと言うわけである。 もう一品「なすと豚肉の味噌炒め」を作った。なすは親戚からもらったものだが、柔らかくてジューシー。とてもおいしくいくらでも食べられる。
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2024/09/03 本日の厨房男子。 いつものとおり、ご近所さんと親戚からもらった野菜を中心に献立。「なすと豚肉の重ね蒸し」「ゴーヤーとなすのカレー風味天」「オクラとキノコのネバネバ」を作った。 酒は焼酎「田苑」。 〆御飯は卵がけごはんに蜆の味噌汁、冷や奴。
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2024/09/02 本日の厨房男子。 夕餉に「連子鯛の煮付け」「とうがらしの炒め炊き」「ゴーヤーチャンプルー」を作った。 ゴーヤーととうがらしは親戚からもらったもの。毎年、8月の下旬頃から9月にかけて親戚が持ってきてくれるゴーヤーはラグビーボールのような形をした肉厚のもの。こいつがうまい。毎食でも食べるほど好物である。 酒は「越の誉 純米吟醸 生酒」。
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2024/08/29 『[新版] 日本人の歴史哲学 ~なぜ彼らは立ち上がったのか~』(岩田温:著/産経セレクト)を読んだ。 まずは出版社の紹介文を引く。
8月になると大東亜戦争のことを考えることが多い。私はテレビをほとんど視ないし、新聞もA社やK通信社のような偏向が甚だしい報道を読むと血圧が上がってしまい血管が切れそうになるので最近は読まないことにしている。勤め人であった頃は社会情勢にリアルタイムで目を光らせておく必要があったのでそういうわけにもいかず、悪意すら感じるほどの偏向報道にも目をつむって、朝は新聞2紙に目を通し、夜は報道番組を必ず視ていた。ほぼ毎日アンガーマネジメントのトレーニングに勤しんでいた感があったのだが、そうした生活をやめてしまうと心おだやかにいろいろなことを深く静かに考えることができる。そんな日々のなかで、今夏、読書に択んだのが『後に続くを信ず 特攻隊と日本人』と本書である。岩田温氏は反左翼的な立場の政治学者である。ご自身は右翼と呼ばれることを一向にはばからないご様子だが、私は敢えて右翼的とは書かず、反左翼的と表現させていただく。というのも岩田氏の言説に触れるに、至極真っ当であって、その意味で氏の立ち位置は"真ん中”だと思っているからだ。ともすれば左派でないと生きづらいこの国のアカデミズムにあって、敢えて右派の立ち位置を変えることなく奮闘していらっしゃる著者に心からの敬意を表したい。岩田氏が今は大学に身を置かず、主としてYouTubeと書籍での言論活動をしていらっしゃるのも、旧態依然とした大学、テレビ、新聞のありさまへの反駁なのだろうと推察する。しかし政治哲学を研究する学者が大学に身を置くことなく研究を続け、言論活動をするには相当のご苦労がおありのことと拝察します。この夏、『後に続くを信ず 特攻隊と日本人』と本書『[新版] 日本人の歴史哲学 ~なぜ彼らは立ち上がったのか~』を買いもとめ読ませていただいたのは極々微力ながらそんな岩田氏を応援させていただきたいとの思いからである。岩田氏はその御著書の出版を告知する際、いつも「家族で一冊ではもったいないですから、お父さん、お母さん、息子さん、娘さん、お祖父さん、お祖母さんにも一冊ずつプレゼントしてみて下さい! 場合によっては、昔の恋人も探し出して、プレゼントしてみて下さい!!」と仰る。私もそうしたいのはやまやまだが、それぞれ一冊ずつの購入でご容赦いただこう。しかしもし息子、娘、あるいは昔の恋人がこのブログを読んで、自分も読んでみたいと思ったなら連絡してもらいたい。善処します。
さて本書の中身である。 私なりに解釈するに「大東亜戦争において、戦ったとしても勝ち目が見えない戦争に日本はなぜ突入したのか。また負けが確定した最終局面において、なぜ特攻という挙にでたのか。特攻隊に志願した者たちはなぜ志願し散華していったのか。それは決して狂信や洗脳による所作ではなく、まして時代の雰囲気に流された軽挙でもなく、よくよく考えそうすべきとの結論に至ったうえでの行動であった。そこには日本人が営々と培った歴史哲学があったのだ」と、そういうことかと思う。 岩田氏はまず戦後がいかなる時代なのかを論評する。岩田氏は戦後を大東亜戦争の敗戦により戦前の日本にあった独立自尊の精神を厭い、国家への不信から国家観を喪失してしまった時代ととらえる。「二度と日本をアメリカの脅威としない」ことを対日占領戦略の基本としたアメリカは日本人に歴史の忘却を企図した。そうした戦後を克服するために、いまこそ日本人の歴史哲学の復権、構築がなされなければならないと説く。 では日本人の国家観とはどういうものか。岩田氏はまず国家を単に現代に生きる人間のみの占有物でなく、過去・現在・未来にわたってこの地に住む国民の共有物であると定義する。すなわち国家とは単なる同時代の水平的共同体であるのみならず、時代を超えた垂直的共同体でもあるのだと説く。この日本を造り、守ってきた先人の後に続き、その歴史、民族の誇りを未来につなぐことを考える、それが日本人の国家観であろう。 次に日本人の歴史哲学とはどのようなものか。岩田氏はそれを西郷隆盛、特攻隊の所為のなかに時空を超えて一つにつなぐものとして見る。それは歴史哲学と呼ぶよりむしろ精神といったほうが適切かもしれない。 まずは西郷隆盛。明治維新においてその目的は無道の国から派遣された黒船を撃ち攘い、国を守ることにあった。しかし維新を成し遂げた日本が盲目的に西洋化を推し進めている。これは本来の目的とは外れてしまっている。過去・現在と続きそして未来へと続くべき垂直共同体としての国家を断ち切ってしまう革命ではないか。西郷とて挙兵しても明治政府を倒せぬことは承知していたはず。しかしそこで立ちあがり死んでいった人々の記憶は必ず後世に残る。後世の国民に敢闘の記憶を残すことによって垂直的共同体としての国家を守り抜く。自らは敗れ死してもそれを守るということが西郷の思想であり、それこそが日本人の歴史哲学であったのではないかと岩田氏は説くのである。無道に対し立ちあがり戦い抜いて死んだ者がいたという記憶を持つ後世と、何らの記憶すら持たぬ後世とは違うということである。敗れ去り死すと判りながら敢えて戦いを挑むという行為は決して犬死にではないということである。 次に大東亜戦争においてはどうであったか。確かに他のアジア諸国のごとく植民地となり、あるいは植民地とまではならずとも西欧に隷属的に従い戦わぬという選択肢があっただろう。しかし日本人は敢えて立ち上がった。独立自尊の気概を捨て、奴隷の平和を欲することをしなかった。その基本にあるのは多くの日本人が共通して持つ歴史の記憶であり、それこそが日本人の歴史哲学である。それは世界で唯一当時の西欧列強に敢然と立ち向かった民族の誇りでもある。特攻隊も然り。日本を守り抜いた先人の後に続く、それこそが特攻で散華した人たちの思いであり、けっして宗教的盲信でも洗脳の結果といった的外れな評価で貶められる類いのものではない。 私なりに本書を読み取ったことは以上のようなことである。本書が岩田氏が未だ二一歳の学生時代に書かれたことに驚きを禁じ得ない。私の尊敬する長谷川三千子氏が本書に「推薦の辞」を寄せられ、「二一歳の岩田温氏は、今もなお、現在の氏自身の最大にして最良のライバルである」との讃辞を寄せられている。私も全く同感です。本書を機会に長谷川三千子氏の御著書も久しぶりに読んでみようかという気になった。それについてはまた後日ブログにアップさせていただこうと思う。
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『カレーの時間』(寺地はるな:著/実業之日本社)を読んだ。 まずは出版社の紹介文を引く。
寺地はるな氏の小説を読むのは初めてのこと。図書館に本を返しに行ったとき、ぶらぶらと書棚を眺めていてなんとなく目にとまったのがきっかけだ。私がカレー好きなので目にとまった。本を手に取り、パラパラと捲ってみるとなにやら関西弁の会話が目につく。そして章ごとのタイトルが、第一章「ピースカレーゴールデン(甘口)」、第二章「夏野菜の素揚げカレー」・・・・といった具合になっている。カレー好きとしてはそこにどんな物語が展開するのか気になるではないか。その程度のきっかけにすぎないが借りることに決定した。 物語はあるおじいさん(その名を小山田義景という)が歳をとり、心配なので二五歳になる孫の桐矢がそのおじいさんの家に同居することになるところから始まる。桐矢は祖父のことを良くは知らなかったし、取り立てて好きというわけではなく、むしろその生きかた、考え方に反発を覚えることの方が多かった。そのことは祖父がまだ娘三人が幼い頃に祖母と離婚したことにも起因していた。しかし一緒に住むうちに、祖父に抱いていたイメージが必ずしも祖父の本当の姿ではないことに気づき始める。そしてだんだん祖父の秘密、祖母と別れるに至ったいきさつが分かって・・・という展開である。 読み始めは女性の作者が描く二五歳の青年目線というものに、若干の違和感を感じていたが、読み進めるうちにグイグイ物語に引き込まれた。そして物語を読み終えた時点で分かったことは「人の生きかた、してきたことの善悪を他人がたやすく判断できるものではない。それがどう見えるかは見るものの事情による。人は皆、簡単に善悪で割り切れない業を背負って生きており、それが悲しみや憎しみを生んでしまうこともままある。それが人生というものなのだ」ということ。 なかなか読み応えがありました。考えることもいろいろありました。寺地氏の他の作品も読んでみたい。なににしようか迷うが、『夜が暗いとはかぎらない』(ポプラ社)あたりを読んでみようかと思う。
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