「どうなさったの? 大きな鞄を提げた人とすれちがったけど、またセールスマンね」 あの男が何者であったのかはわからぬが、セールスマンにはちがいないと思った。 「買わされちまったよ」 「あら、何を?」 「小説」 はたして高い買物であったかどうか、それはこれから私自身が決めることであろう。 私は母屋には入らず、茶庭の敷石を踏んで書斎にこもった。 法外の支払いを取り戻すために。 (本書P26より)
『ハッピー・リタイアメント』(浅田次郎・著/幻冬舎文庫)を読みました。 冒頭、引用したのはこの小説のプロローグに出てくる一場面。実際に浅田氏が借金取りの訪問を受けた経験を基にした実話だそうです。
物語は今や売れっ子作家となった浅田氏の豪邸に何とかいう公的機関の職員が訪れ、民法上はもうとっくに時効になった30年以上前の借金について書類上の手続きをして欲しいという。いまさら借金を返すつもりなどさらさらなかったし、返済をせがまれたわけでもないのだが、なぜか元本だけは返済しようと約束してしまう。その時、浅田氏債権回収機構に天下りした役人を主人公にした小説を思いつく。浅田氏は小説を書き始める。その金を取り戻すために…… と、まあこのようなプロローグで始まる天下り小説である。
裏表紙の紹介文を引きます。 定年まであと四年のしがない財務官僚・樋口と愚直だけが取り柄の自衛官・大友。二人が突如転属を命じられたJAMS(全国中小企業振興会)は、元財務官僚の理事・矢島が牛耳る業務実体のない天下り組織。戸惑う彼らに、教育係の立花葵はある日、秘密のミッションを言い渡す。それは汚職か、横領か、それとも善行か!? 痛快娯楽「天下り」小説。
浅田氏に自衛官キャラを書かせたら天下一品である。氏は高校卒業後、自衛隊に籍を置いたことがあるだけに当然といえば当然だが、自衛官が自衛隊の外に出たときにあらわになる一般社会とのズレが滑稽で少し悲しく描かれる。しかし、一般社会が当たり前としていることが実は間違いであり、見た目には滑稽に見える自衛官の心根が真っ当なのだというアイロニーがそこにある。物語はそんな定年前の自衛官と財務官僚(どちらもノンキャリアである)の二人が天下りしたらどうなるか。そんな視点で展開する。二人ともノンキャリアであるから、エリート官僚とはちょっぴりズレがある。出勤時間と退勤時間さえ守れば、後の時間は何をしようと自由。ただし、仕事だけはしてはいけない。給料はたっぷり、恙なく勤め上げればもう一度たっぷり退職金がいただける。お役人らしくないお役人が、数ある天下り先でも究極のおいしい先に天下ったときどのようなことが起こるか、それが本書のテーマです。 金でどれだけのことができるか、金が人生にどれほど重要な意味を持つかを充分に知りつつも、天下り先に居座るために気に入らないヤツにおもねったりしない。何ら世の中のためにならず、苦労もしないで甘い汁を吸うことを潔しとしない。「金があるだけが幸せじゃねえ。オレたちゃ誇り高く生きる」とばかりに凛と姿勢を正す姿が痛快です。
ただ一つ、解説を勝間和代氏が書いていらっしゃるのだが、これはミスキャストだと思います。
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