数学の目標は真の中における調和であり、芸術の目標は美の中における調和である。どちらも調和という形で認められるという点で共通しており、そこに働いているのが情緒であるということも同じである。だから両者はふつう考えられている以上によく似ている。
『春宵十話』(岡潔・著/光文社文庫)を読みました。春の宵は桜を愛でるのもよいが、雨の日はやはり読書にいそしみたいもの。大数得学者の人生論、品格の書が心に染みました。小林秀雄氏との対談本『人間の建設』と合わせて読むとより理解が深まります。 http://hyocom.jp/blog/blog.php?key=182579
裏表紙の紹介文を引きます。 数学は論理的な学問である、と私たちは感じている。然るに、岡潔は、大切なのは情緒であると言う。人の中心は情緒だから、それを健全に育てなければ数学もわからないのだ、と。さらに、情操を深めるために、人の成熟は遅ければ遅いほどよい、とも。
余談である。本書には書いていないが世界でもっとも美しい数式について読んだことがある。たしか小川洋子氏の小説『博士の愛した数式』だったと思う。その数式は「オイラーの等式」。これですね。 e : ネイピア数、すなわち自然対数の底
よくはわからないのですが、それぞれ違う時代に確立された自然対数の底 e と、虚数単位 i と、円周率 π で構成された数式が最も基本的な体 0 と 1 に帰結するという事実に、宇宙全体を調和させ統合する神の存在を感じるのは私だけではないはず。
太平洋戦争が始まったとき、私はその知らせを北海道で聞いた。その時とっさに、日本は滅びると思った。そうして戦時中はずっと研究の中に、つまり理性の世界に閉じこもって暮らした。 ぼくは計算も論理もない数学をしてみたいと思っている。 いまの教育では個人の幸福が目標になっている。人生の目標がこれだから、さあそれをやれといえば、道着というかんじんなものを教えないで手を抜いているのだから、まことに簡単にできる。いまの教育はまさにそれをやっている。それ以外には、犬を仕込むように、主人に嫌われないための行儀と、食べていくための芸を仕込んでいるというだけである。しかし、個人の幸福は、つまるところは動物性の満足にほかならない。生まれて六十日目ぐらいの赤ん坊ですでに「見る目」と「見える目」の二つの目が備わるが、この「見る目」の主人公は本能である。そうして人は、この本能を自分だと思い違いをするのである。そこでこのくにでは、昔から多くの人たちが口々にこのことを戒めているのである。私はこのくにに新しく来た人たちに聞きたい。「あなた方は、このくにの国民の一人一人が取り去りかねて困っているこの本能に、基本的人権とやらを与えようというのですか」と。私にはいまの教育が心配でならないのである。 いまの学生で目につくことは、非常におごりたかぶっているということである。もう少し頭が低くならなければ人のいうことはわかるまいと思う。謙虚でなければ自分より高い水準の物ものは決してわからない。せいぜい同じ水準か、多分それよりも下のものしかわからない。それは教育の根本原理の一つである。 私は日教組の先生たちのやり方に疑問を持っている。団体交渉などといって集団的に行動し、しかも怒りの気持を含めている。人というものが怒っているときに正常な判断を下せるかどうか、だれにでもわかるはずだ。あんな気持を教室にまで持って帰られてはたまらない。 なぜ三つのSがいけないのかというと、シネマは外の物が感覚から入って人の感情を支配する。つまり外から心の鼻づらを引き回されるのがうれしいという気持になるからである。セックスは、人の高尚なものは大脳の上の部分にあるのに、下の部分ばかり働くからである。またスポーツは、知覚作用がよく働かねばならないのに、運動作用がよく働くことになるからである。だから三つとも方向が反対なのであって、これだけ三つを流行させれば知的にはほどんど無力になると決まっている。 国家が義務教育と並んで力を入れるべきものとして天才教育があると思う。……(中略)…… 大多数の人の頭がいくら教育してもコピーしか作れない以上は、少数を選び出して天分を発揮させるほかはないのである。いまこそ独創がどんなに大切か、わかっているのだろうか。少なくとも義務教育の現状はとうてい独自の見解などは期待できないありさまである。 漱石といえばまた、朝日新聞に入社した当初だったと思うが、次のように獅子吼したことを想い出す。
(最後に)
(追伸として)
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