おとうさんもおかあさんも、その大切なけじめの言葉を僕に言わせてくれなかったのだから、それだけはきっぱり言おうと、広志は心に決めていた。
「また遊びにくるからね」
そんな約束は信じない。
「さよなら」
と、広志はもういちど言った。
「しっかりお勉強するのよ」
目をそらしてはならない。
「さよなら」
唇だけで、広志は言った。
「運動会、行けなくてごめんね」
「さよなら」
「一等賞になるといいね」
「さよなら」
「おじいちゃんを助けてあげてね」
「さよなら」
こみ上げるそのほかの言葉の何かひとつでも口に出そうものなら、泣いてしまうにちがいなかった。
(本書P87「切符」より)
『夕映え天使』(浅田次郎・著/新潮文庫)を読みました。
裏表紙の紹介文を引きます。
東京の片隅で、中年店主が老いた父親を抱えながらほそぼそとやっている中華料理屋「昭和軒」。そこへ、住み込みで働きたいと、わけありげな女性があらわれ……「夕映え天使」。定年を目前に控え、三陸へひとり旅に出た警官。漁師町で寒さしのぎと喫茶店へ入るが、目の前で珈琲を淹れている男は、交番の手配書で見慣れたあの……「琥珀」。人生の喜怒哀楽が、心に沁みいる六篇。
泣かせの浅田らしい六つの短篇。ただし本書は「泣かせ」というよりは「しみじみ」といった趣。
「夕映え天使」と「切符」が好み。人生にはどうしようもない現実がある。変えることが出来ないという意味ではそれは運命といっても良いかもしれない。人は運命の前には無力だ。しかし、同時に人は運命を受け入れながら気高さを失わず生きることが出来る。あるいは死ぬことが…。浅田氏の小説はいつも「気高さを失わなければ、ときには現実にまさる真実を見ることができる、奇跡をおこすことが出来る」と信じてみようと思わせてくれる。
「夕映え天使」
目の前にある幸せに手を伸ばしさえすれば生きてゆけただろうに……。人に言えない哀しみは、そうすることが出来ないほど深かったということか。
「切符」
大人にはくさぐさの事情がある。大人だからといって、それにうまく対処できるわけではない。むしろ大人であるからこそ、正しくあるべき道を選べない。そして子どもは大人の事情に否応なしに翻弄される。
「特別な一日」
会社に別れを告げる日。その日を特別な一日にしないと心に誓った。しかし、意外にもその日は……。強く記憶に残る一篇。
「琥珀」
三陸の漁師町。裏路地で一日十杯のコーヒーを点てる喫茶店。店の名は「琥珀」。店には窓がない。ドアの脇にある身の丈ほどの細長いステンドグラスがあるだけだ。厚くよどんだガラスは店の名にちなむ琥珀色。マスターは、この十五年間、琥珀の中に閉じこめられた古代の昆虫のようにひっそりと生きてきた。
「丘の上の白い家」
嘘をつかなければ生きていけないほどの赤貧の境遇にあって清貧を貫いた青年と、生まれながらに全てのものを手に入れているが、同時に何も手に入れていない「丘の上の白い家」に住むお嬢様が出会ったとき、運命の歯車がかみ合った。
「樹海」
この短編を読んで浅田氏が三島由紀夫氏の割腹自殺をきっかけに自衛隊に入隊したのだと解った。しかし、この短篇はそのような華々しい死に方とは対極にある。樹海で人知れず死んでゆく男との遭遇。