物事の見方は単一ではないというのは、これは今日もはや常識に属する。現代において相対化のひとつもできないようでは、中学生もやってられない。しかしそのことの意味をもう少し突き詰めて考えれば、俺たちがこれこれのことはじぶんの血肉となるほどよく知っていると思い込んでいる事柄でさえ確とそうとは言えないことになり、これは心理的な安定にとってはなはだよろしくない。そこで真実を追うのではなく次善の策として、ある深度以上はその真実性を追求しない、つまり「信じる」ことにするのだ。こうして初めて俺たちは相対性の闇を振り払い、平凡な日常を過ごすことができる。 しかしそのことは、周囲の全てを認めて一切の追求を諦めるということとは全く別の問題なのだ。信じることは不可避だといっても、盲信を認めるわけにはいかない。これもまた常識だ。許すまじくは許さない。俺自身は主義としてそうした一線を持たないが、だからといってそれを持つ人間を軽んじることはしないだろう。 (本書P261「手作りチョコレート事件」より抜粋)
『遠まわりする雛』(米澤穂信・著/角川文庫)を読みました。
まずは裏表紙の紹介文を引きます。 折木奉太郎は“古典部”部員・千反田えるの頼みで、地元の祭事「生き雛まつり」へ参加する。十二単をまとった「生き雛」が町を練り歩くという祭りだが、連絡の手違いで開催が危ぶまれる事態に。千反田の機転で祭事は無事に執り行われたが、その「手違い」が気になる彼女は奉太郎とともに真相を推理する―。あざやかな謎と春に揺れる心がまぶしい表題作ほか“古典部”を過ぎゆく1年を描いた全7編。<古典部>シリーズ第4弾!
古典部に所属する4人の部員にまつわる7つのエピソードをミステリ仕立てで読ませてくれます。それぞれ、人生の春とも云うべき高校一年生。極上のミステリ小説に淡い恋心の芽生えがスパイスとしていい感じに情緒を添えている。日常のミステリの魅力を余すところ無く楽しめました。 さて、今、手元には『九マイルは遠すぎる』(ハリイ・ケメルマン)と『二人の距離の概算』(米澤穂信)がある。どちらを先に読むべきか、悩むところです。二人の女性から、それも極めつけの魅力を持った女性から同時にデートのお誘いを受けた気分です。じつは私、齢五十すぎにしてそのような経験は皆無ではありますが、悩ましくも迷う様はきっとこんなだろうと思うのであります。体はひとつしかないからなぁ。うーん・・・・・
(追記) 本書第1編「やるべきことなら手短に」のなかで『女郎蜘蛛の会』なるものが神谷高校秘密倶楽部としてあるとの記述がある。小説内においてもでっちあげなのだが、これはおそらくアシモフの『黒後家蜘蛛の会』をもじったものにちがいない。創元推理文庫として出版されている。以前から気になっていた小説なのだが未読である。この際読もうかと思う。全5巻シリーズとして刊行されている。気合いを入れなければ読み切れない。暑さに負けるな、ガンバロー!!
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