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2011年08月05日(金) 
 昨日(2011/8/4)から、東日本大震災被災地支援活動の打ち合わせで群馬県桐生市に来ています。おりしも、地域最大の「桐生祭り」が開催される中。「八木節祭り」など伝統と文化を継承するイベントのスターターとなる「桐生祇園祭り」が始まりました。
 祇園祭は元来、祇園会(ぎおんえ)とか天王祭礼(てんのうさいれい)と云い、午頭天王(ごず てんのう) を祀ったものです。貞観18年(876)に京都を起源とした神仏習合の信仰であった祇園精舎の守護神で、疫除として祇園社に祀ったことから全国津々浦々に広まっています。

 桐生の場合 、天正19年(1591年)から街並みを整い始めたが、明暦2年(1656年)の祭礼記録が最も古く、これを桐生祇園の起源としています。当初は子供の手踊りが中心で素朴なものでしたが、商業都市として活気があった地域住民が市神(いちがみ)を建立、現在の本町三丁目市営アパートの地にあった衆生院という寺が午頭天王社を祀っており、この市神と天王社が一緒に祭りをするようになってから一層華やかになり、賑わうようになりました。
 江戸末期には、屋台の曳き違いなどが行われ、4、5台出ることも珍しくありませんでした。当時は、江戸芝居など各町が競い、見物人も夜通し徹夜で楽しみ、関東の三大夜祭りに数えられています。

 華美な祭りは時には禁止されもしましたが、安政の頃より本町惣六町の屋台が本格的に建造され始めました。明治維新が実現し、神仏分離の布告が出されると、仏教の守護神である牛頭天王の神号は廃止され、祭神は素戔鳴命(すさのおのみこと)としました。京都の感神院祇園社が八坂神社と改めたのを機に全国へ広がり、桐生でも明治3年に衆生院が廃寺となり、八坂神社と改名今日に至っています。明治41年、末社と共に美和神社へ合祠され、神輿蔵を建造しています。

 織物業を中心として栄えた自由都市桐生は、京文化と江戸文化を貪欲に採り入れ、独特の町人文化を形成しました。経済力と文化的資質が、多くの文人達を呼び寄せ、そして輩出してきた。そのような土壌や気風が、祇園祭の鉾や屋台、祇園囃子や神輿、大幟にみられるように彫刻、絵画、書など、素晴らしい祭礼芸術を創造することになっています。先人達の残したこれらの文化遺産は、町衆の心意気と街への愛着が生み出したのもであり、決して忘れてはならないものであり、これからの日本にとって大切な原点であろうと思います。

(参考)桐生市ホームページ

閲覧数1,326 カテゴリ日記 コメント2 投稿日時2011/08/05 07:06
公開範囲外部公開
コメント(2)
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  • 2011/08/05 22:03
    祭っていいですよね~
    なんか元気をもらえる気がするんですよね
    次項有
  • 2011/08/06 13:25
    > ももたろうさん
    got先生がいつもおっしゃっていますが、「祭り」は地域の紐帯の原点ですね。地域SNSからいろんな祭りが創発するように心がけたいと思います。
    次項有
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