ちょっと修正させてください。明治になって荷車や馬車の利用が許されるようになり、従来の急坂も厭わない「まっすぐな街道」では不便になったのでしょう。甲山町史によると、明治17年千田貞暁知事のとき、陰陽連絡道を開通させた とあります。この時、切通しをつくったので、従来の街道がバッサリと断ち切られたのでしょう。
同じような例は、昨年三月に「銀シャリツアー」で歩いた、赤屋八幡神社付近でも見られます。
また、もう少し時間があれば切通しから五分のところに昨年、国登録有形文化財に指定された石造の小世良眼鏡橋もありますよ。(明治41年造)