新しい高野山という(銀の道:世羅町西上原) 備後の国大田荘は平安時代末期後白河院領の荘園となった。その後、高野山に寄進され、その成長として龍華寺が整備された。そのとき、今高野と呼ばれるようになる。荘園でとれた物資を運ぶため、尾道までの道が開発、尾道港が倉敷地(港)となる。京、奈良にここから運び出される。銀の道の始まるずいぶん前の話である。銀の道は、この門前に、藩営の御茶屋、御銀蔵が設置されている。運上銀輸送路の宿駅としても重要であった。 位置図:おのみっち「風景街道「銀の道」 」より http://onomichi-sns.jp/community/?bbs_id=232 |